松本零士氏を偲んで ♯01
氏の訃報から少し日が過ぎました。
これからは時折、氏に関する事柄を、気の向くままに記していこうと考えております。
私は、直接氏を目の当たりにした機会はそう多くありません。
一番最初は、1980年8月2日の事でした。

『ヤマトよ永遠に』公開日に、東急東横線で『宇宙戦艦ヤマト号』が走るイベントがあり、幸運にも参加出来ました。

なにぶん43年前の話なので……上記のチラシに表記されているように、今は亡き渋谷パンテオンまで無料乗車券を確保しに行ったのか……当時入会していた『ファンクラブ本部』のほうで、何か優先の入手ルートがあったのか、全く記憶に残っていないです。
当日朝、菊名駅の改札前に集合し、電車に乗り込み、当時東急東横線の終着駅であった桜木町まで運行し、桜木町駅で構内アナウンスを派手に催したのちに出発。
氏が車掌として車掌室に乗り込み、走行中は生インタビューが車内放送されていました。
渋谷までの走行中、車内を一往復、車掌服姿の氏が、皆と握手をしながらの「行幸」です。
もう、本当にもみくちゃにされているような感じでした。私も往路復路で1度ずつ握手していました。

社内広告は全て『ヤマトよ永遠に』のポスター類です。
渋谷到着前に、剥がして持ち帰ってくださいとのアナウンスがあり、渋谷に到着した時点で、もう車内は狂喜乱舞の様相(^^)。
日本人には無い感覚ですが、よく見る海外の『略奪』っていうのは、ああいうテンションなのかと、今になって思いました。
渋谷駅ホームではバンドが生演奏をする中を、我々乗客が行進して、イベント終了。
おぼろげな記憶を繋ぎ合わせると、こんな感じです。
プレゼントは何を貰ったか……全く記憶にありません。
私は幼馴染と2人で参加していましたが、確かこのまま「東急レックス」で観劇……にはならなかったと思います。日を改めたかと、何しろ2年前の『さらば~』には及ばないまでも、かなり凄い混雑でしたので。
パンテオン横の『ミーくん』で買い物をして帰ったのだと思います。
『ミーくん』の話は、まだ別の折にヽ( ´_`)丿。

これからは時折、氏に関する事柄を、気の向くままに記していこうと考えております。
私は、直接氏を目の当たりにした機会はそう多くありません。
一番最初は、1980年8月2日の事でした。

『ヤマトよ永遠に』公開日に、東急東横線で『宇宙戦艦ヤマト号』が走るイベントがあり、幸運にも参加出来ました。

なにぶん43年前の話なので……上記のチラシに表記されているように、今は亡き渋谷パンテオンまで無料乗車券を確保しに行ったのか……当時入会していた『ファンクラブ本部』のほうで、何か優先の入手ルートがあったのか、全く記憶に残っていないです。
当日朝、菊名駅の改札前に集合し、電車に乗り込み、当時東急東横線の終着駅であった桜木町まで運行し、桜木町駅で構内アナウンスを派手に催したのちに出発。
氏が車掌として車掌室に乗り込み、走行中は生インタビューが車内放送されていました。
渋谷までの走行中、車内を一往復、車掌服姿の氏が、皆と握手をしながらの「行幸」です。
もう、本当にもみくちゃにされているような感じでした。私も往路復路で1度ずつ握手していました。

社内広告は全て『ヤマトよ永遠に』のポスター類です。
渋谷到着前に、剥がして持ち帰ってくださいとのアナウンスがあり、渋谷に到着した時点で、もう車内は狂喜乱舞の様相(^^)。
日本人には無い感覚ですが、よく見る海外の『略奪』っていうのは、ああいうテンションなのかと、今になって思いました。
渋谷駅ホームではバンドが生演奏をする中を、我々乗客が行進して、イベント終了。
おぼろげな記憶を繋ぎ合わせると、こんな感じです。
プレゼントは何を貰ったか……全く記憶にありません。
私は幼馴染と2人で参加していましたが、確かこのまま「東急レックス」で観劇……にはならなかったと思います。日を改めたかと、何しろ2年前の『さらば~』には及ばないまでも、かなり凄い混雑でしたので。
パンテオン横の『ミーくん』で買い物をして帰ったのだと思います。
『ミーくん』の話は、まだ別の折にヽ( ´_`)丿。
